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ローマ帝国衰亡の原因

イタリア・ローマ市内にあるコロッセウム By pcs34560 From Wikimedia project

 まず、塩野七生氏の「ローマ人の物語」第11巻に見られるマルクス・アウレリウス帝に「ローマによる平和」の終わりの始まりを見る意見に反論します。その論拠はマルクス・アウレリウス帝が即位前にイタリア本国を出ていないこと、マルクス・アウレリウス帝の時代に蛮族のドミノ倒しと言う現象が初めてローマを襲ったことにあるようです。
 確かに、現場に触れた方が良い情報が得られるでしょう。しかし、現場から距離を置いた方が冷静な判断ができるという効用があり、情報を総合・分析するには現場から距離を置いた方が良いでしょう。そして、中央にいても、命令とその実行過程と結果をある程度正確な情報で知ることができれば、自分の行為がどのような結果を生むかということを経験でき、正確な情報を蓄積できます。完全に現場の経験と代替することはもちろんできませんが、ある程度なら可能と考えます。
 確かに、現場に顔を見せることを含めて、現場の把握は重要ですが、マルクス帝は即位前に属州に行かなかった。しかし、その責任は大部分が現場を経験させなかった義父であり、師であり、上司である皇帝ピウスにあります。マルクス・アウレリウス帝は即位後にドナウ防衛線という現場に張り付きましたし、マルクス・アウレリウス帝以後のローマ人が即位前のマルクス・アウレリウス帝を見習って皆、現場を軽視したという訳でもないでしょう。
 もし、マルクス帝に責任があるとすれば、皇帝に逆らって自分の意思で属州に赴かなかった点ですが、「学問好き。誠実。強い責任感。教えられたことを抵抗なく受け入れる素直さ。優等生。家庭生活を大切に思う、良き家庭人。皇帝になる身である、人々の模範であらねばならないという強い自覚。自分を導いてくれた人々に対する、暖かく深い敬愛の念。」だから、ピウス帝に逆らって属州に行かなかったことが非難に値するでしょうか。
 そして、そのピウス帝もハドリアヌス帝により帝国の防備は万全となっていると考えたのでしょう。しかも、現場を歩いたハドリアヌス帝に対する元老院の評判は散々だったのです。そして事実、平穏に時が過ぎていたのです。ですから、中央から統治したことが、それほど大きな非難に値するとは思えません。
 そして元老院がハドリアヌス帝を理解しなかったのは平和な時代が続いていたからです。さらに、ピウス帝によって示されたことは、全くの平穏時には、それもハドリアヌス帝が行ったように帝国の防備が万全化されていたならば、本国にいても帝国の統治は十分可能ということでしょう。
 塩野氏は「悪帝ネロの時代でも強烈だったローマ人の共同体意識が、賢帝マルクスの時代に衰え始めるとは皮肉だった」と帝国の「アパシー」(無気力)について述べますが、平和が続けば「アパシー」が勢いを得るのは歴史の傾向というものです。五賢帝時代の終わりに位置するマルクスの時代に「アパシー」が現れていてもそれは、マルクスの責任ではありません。また、マルクス帝にアパシーを増長した行為はないでしょう。
 確かに、マルクス・アウレリウス帝は軍事的天才ではなく、将来おこる蛮族のドミノ倒し現象に対する万全の対策を打ち立てることもできなかった。しかし、継戦を遺言したようにドナウ防衛線でとても有利に戦いを進めていた。自分に与えられた課題は誠実に果たしたのであり、将来のドミノ倒しまでその責任とするのは酷というものでしょう。
 それに、当時の蛮族のドミノ倒しと言う現象自体にはマルクス・アウレリウス帝には責任が全くありません。哲学者で外国に行ったことのない人物を排除するためにこのような物言いをしているのではと疑います。
 そして、蛮族のドミノ倒し現象の万全の解決策とはゲルマン人大部族の重要部分をローマ化・文明化して、ローマ帝国防衛の先兵とすることでしょう。それにはゲルマニア本土の征服が必要です。しかし、それはアウグストゥスやティベリウスでさえ、完遂しなかったことなのです。
 蛮族のドミノ化を予測して対処しなかったことをして責任というなら、後世の人は歴史を知っているので、「あれが〜の徴候だった」と簡単に言えますが、現実にその時代に生きている人には最初の徴候を知ることは極めて難しいことなのです。そして、軍事的才能が少ないことをもって責任というなら、マルクス帝以下の皇帝はマルクス以前にも多数いました。また、マルクスの軍事的才能故に帝国の没落にとって決定的な事態が生じた史実もありません。

 そして、私は「ローマによる平和」の終わりをもたらしたのは蛮族のドミノ倒しと言う外的現象に加えて、内的な要因として「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」が少なくなっていったことが決定的な原因だと考えています。
 10巻では「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」がローマのインフラを支える姿が描かれていました。ローマのような大帝国にはこうした人々が不可欠なのです。そして、なぜ、「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」が減少していったかと言えば、212年にカラカラ帝がローマ市民権を帝国の全住民に与えたことと、キリスト教の普及が大きかったことでしょう。
 ローマ市民権の全住民への開放について。ローマ市民権が軍団兵になる資格などと結びついていたことから分かるように、「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」にとって、属州民ではないローマ市民であることは誇りでした。属州民である「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」にとっては、ローマ市民権を得ることは目標でした。その誇りであり、目標であるものをカラカラ帝は奪ったのです。
 そして、市民権を得るのに帝国の住民でありさえすればよいというのなら、蛮族は帝国内に移住さえすればローマ市民になって文明の恩恵と良い土地に住む恩恵を受けられると考えて、蛮族の移動の誘因になります。また、日々の暮らしに追われる属州民にとっては負担が少ない属州民という地位が認められるから、ローマの支配を甘受するという面があったでしょう。ローマ市民となって負担が増えれば、不満を蓄積していくことになるでしょう。
 キリスト教は、初期は特にですが、公共善の維持よりも隣人愛に重きを置きました。国全体や遠くの人々のことも考えて「公共善を維持することに誇りを抱く誇り高き人々」よりも隣人愛を実践する人が尊ばれるのです。そして、公共善について考えるよりも、神学論争に熱中する人々が多くなるのです。

 11巻では第四部でセヴェルス帝について述べて最後に、「そして、この後のローマ帝国は、歴史家たちの言う三世紀の危機に突入する。魚は頭から腐る、と言われるが、ローマ帝国も頭から先に腐って行くのだった」と述べて締めくくっています。しかし、マルクス・アウレリウス帝が腐臭をわずかでも持っていたとは考えられません。息子への世襲も内乱を避けるためでした。また、「死ねば誰でも同じだが、死ぬまでは同じではない、という矜持」を有して皇帝として誠実に国務に取り組んでいたと考えられます。
 マルクス・アウレリウス帝に「ローマによる平和」の終わりの始まりを見ることはできないと考えます。さらに言えば、三世紀の危機にもマルクス・アウレリウス帝は責任が無く、マルクス・アウレリウス帝後の皇帝の責任でしょう。特に、セヴェルス帝がローマ帝国の軍事政権化への舵を大きく切ったのが大きかったのではないでしょうか。

 そして、カラカラ帝のアントニヌス勅令により、ローマ帝国は大きく変質していき、ローマ帝国は三世紀の危機を迎えます。アントニヌス勅令により「帝国の紐帯とてしてのローマ市民権」が失われたのです。
 「帝国の紐帯としてのローマ市民権の喪失」はローマ人の心性に大きな影響を与えました。その一つが重装歩兵の維持ができなくなったことです。重装歩兵は市民的精神に基づく兵種であり、厳しい修練と集団的精神を必要とします。その根本にある市民的精神がローマ市民権の開放により失われたのです。軍団兵の誇りであったローマ市民という資格が失われたのです。その結果、重装歩兵は弱体化し、蛮族に対する優位も失われました。市民的精神に基づく重装歩兵こそが、文明の優位を確保していたのです。そこで、ガリエヌス帝時に、蛮族と対等に戦うために、維持が困難となった重装歩兵を捨て去り、騎兵を根幹となる兵種としたのです。
 そして、ローマ市民権の開放は政治的にも大きな意味を持っていました。皇帝は元老院とローマ市民(実質的にはローマ市のローマ市民)が選出していました。しかし、属州民もローマ市民となることで、その正統性に疑問が生じました。
 ローマ市のローマ市民が全ローマ帝国を代表していないことは明らかです。それに対して、属州からの人材を多数受け入れてきた軍隊こそ、ローマ市民の代表ではないかという気運が生じ、軍隊が自らの意思を貫いて皇帝を選出するようになりました。重装歩兵による文明の優位が失われた結果、蛮族は帝国内に頻繁に侵入するようになります。これに対処する軍隊の地位が向上したことやセヴェルス朝の軍隊優遇も軍隊による皇帝選出の理由です。
 他方、元老院はそれまでのローマ市民を伝統的に代表していたが、果たして属州民は代表しているのかという疑問が生じました。これに対して、元老院は悪い対応をしました。属州も代表することを示さねばならなかったのに、属州出身の皇帝(マクシミヌス帝)を拒否したのです。これにより、元老院の権威は損なわれて行きました。
 そして、260年に大事件が起こりまし。代々の元老院階級に属するヴァレリアヌス帝の捕囚です。その結果、ガリエヌス帝は軍隊と元老院を分離する法律を成立させます。元老院議員の市民精神が薄くなっていたこと。元老院議員が軍隊を率いて戦いに勝利できる自信を失ったこと、勝利するには軍事のプロでなければならず、元老院階級を軍事のプロに育てる余裕が失われたこと。これらが理由でしょう。このことは重大な意味を有していました。帝国は危機にあり、軍事的能力が求められていました。そして、皇帝は軍隊のトップに立ち、自ら軍隊を率いて戦う存在です。軍隊から切り離された元老院議員は皇帝となる資格を失ったのです。
 260年の危機はアウレリアヌス帝の活躍により収拾されます。その際、元老院階級はガリア帝国の降伏において大きな役割を果たします。この時点では市民精神が薄れたとは言え、まだ力を発揮したのです。それが、260年の危機が帝国の崩壊にならなかった理由でもありました。
 しかし、ここで元老院は大きな間違いを犯します。275年に非業の死を遂げたアウレリアヌス帝の後継者として老齢の元老院議員を選出したことです。元老院議員は皇帝となる資格を失っていたのだから、元老院は最も有能な軍人を選出してその権威を保たねばならなかったのです。そうすれば、これからも皇帝を選出して権威付け、帝位の安定・帝国の安定に貢献できたのです。軍隊は一度目は元老院の選出した皇帝に従いました。しかし、二度目は無視しました。

 そして、ドッズやギボン、そして著者も指摘しているようにこの時代にキリスト教が広まったのは、蛮族の侵入による社会不安が主たる原因であった。

 三世紀の危機を経て、ローマ市民権の喪失、キリスト教の普及に対する一応の対策が為されました。それがディオクレティアヌス帝による皇帝の専制君主化と帝国の分割統治であり、コンスタンティヌス帝によるキリスト教の公認です。分割統治はローマ市民権の喪失によって統治しにくくなった帝国をより統治しやすくするための対策となります。しかし、分治者による内戦を誘発する傾向が大きいのです。皇帝の専制君主化は元老院を尊重する市民主義との訣別でもありました。そして、この市民主義こそが、ローマ帝国を他の古代帝国とを区別し、ローマ帝国に永い命を与えてきたのです。「ローマ市民権の喪失」という決定的第一歩に続き、「ローマ市民権の喪失」に対処するために市民主義を捨てるという決定的な第二歩をローマ帝国は踏み出したのです。これによりローマは普通の古代帝国の性質を有するようになったのです。キリスト教の公認はキリスト教を公共善に高める対策です。
 その後、決定的な蛮族のドミノ倒し現象が起こります。蛮族のドミノ倒しは次のようなことが原因と考えられます。まず、ローマ帝国の近くの蛮族が文明の恩恵を受けて、精神の猛々しさが薄れます。また、ローマ帝国の軍事力により直接弱体化されます。しかし、遠くの蛮族は、精神の猛々しさに対する文明の影響をあまり受けません。なのに、文明の進んだ軍事能力は進んで学ぶ傾向にあります。だから、遠くの蛮族が文明に引かれるなどして進攻した場合、近くの蛮族は遠くの蛮族に立ち向かえず、必死にローマ帝国に逃げこもうとします。
 そこに決定的なドミノ倒しの動因が現れました。フン族です。このフン族には遠くの蛮族も敵することができず、帝国に向けて一斉に移動を開始します。それに対して一応の対策しか受けていない帝国は大変な困難に直面します。
 では、民族の大移動が起こったとき、なぜ、東帝国は生き延び、西帝国は滅んだのか。民族大移動に対する軍事政策の巧拙もあったのでしょうが、大きかったのは、次の二つではないでしょうか。
 まず、危機に際しては権力の独裁化が必要なことがあります。東帝国は危機に際しての皇帝法王主義で、自帝国をまとめ上げて対処することができました。これはオリエントという専制主義に馴染み深い風土にあったからです。これに対し、西帝国は、ラテン世界では、皇帝法王主義による対応はできませんでした。中世以後も皇帝と法王は別人です。独立と自由を尊ぶ気風などがそうさせたのでしょう。ですから、西方世界では、キリスト教化、すなわち法王の権威を受け入れることは、皇帝の支配を受け入れることではありませんでした。
 次に、西帝国の中心イタリアが、ローマ市というローマ帝国の中心があったが故に、アパシーの進行がより深刻だったと考えられる点です。そして、幾多の帝国が興亡を繰り返したオリエントよりもずっと、ローマという空前の大帝国が没落する機運は深刻に受け止められたでしょう。さらに東帝国がコンスタンティノープルという鉄壁の大首都を持ち得たこと。
以上に加えて、西帝国がゲルマニア本土に近く、ゲルマン人にも馴染み深い土地であったことなどがあげられます。
 それでも、一旦はフン族という大脅威を前にして、ゲルマン民族と協力して、カタラウヌムで勝利しました。しかし、フン族の脅威が去った後は、分解作用がどうしようもなくなったということです。


 セヴェルス帝によるイタリア人近衛軍団の解散と言い、帝国の軍事政権化と言い、共同皇帝を攻め滅ぼしたことと言い(マルクス帝が自ら共同皇帝を立て共同皇帝を最後まで尊重したことが想起されます)、セヴェルス帝の子、カラカラ帝によるローマ市民権の喪失と言い、これらは帝国の非イタリア化ともいうべきものでしょうが、その非イタリア化はセヴェルス帝の出身地が北アフリカであったことからカルタゴの復讐のように思えてならないのです。カルタゴの種子がローマ帝国内に潜り込んでローマ帝国を変質させてしまったように思えてならないのです。

 塩野氏の主張は要するに自己の支持するイデオロギーのために五賢帝時代の最後にマルクス帝が位置することを利用して帝国衰亡の原因を押しつけようというものです。ただ、これを書く前提としての知識の大きな部分を塩野氏の著作、「ローマ人の物語」1巻から12巻によって得たことは述べておきます。

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